(中島 敦司)
最終回の今回は、
- 全員参加
- 観光で得た資金を充てる
についてお話しし、最後に
- 近自然森林管理
すなわち、人間社会の豊かさと自然環境の両方を持続させる「近自然森林管理」の原則を整理する。
7. 全員参加
近年は、都市の住民などが自分たちの責任について考えるようになったことを背景に、森林に対して税金を投入する事例が増えてきている。「みどりの雇用事業」や水源林への税金投入など、社会資本整備に向けた新しいタイプの制度が提案されている。
それだけでない。民、特に個人レベルでの森林支援も増えてきた。例えば、住民参加による植樹や間伐のボランティア参加(写真7、写真8)、森林や立木のオーナーになる個人や企業まで出てきている。社会に必要な公益機能を管理するのに必要な費用や労力を、皆で負担するという民主主義の風が、森林に向かって吹き始めている。

写真7 住民参加による伐採跡地への植樹などの森林参加
左の写真は市民の手による植樹の様子(写真提供:NPO熊野さくらの会)。右の写真は市民の手による間伐の様子(写真提供:NPO森と水辺の技術研究会)。このような体験を「楽しみ」ととらえる人も増えてきている。もちろん、こうした環境貢献型のエコツーリズムは、森林だけでなく、様々な自然や文化保護に役立ち始めている。

写真8 最下流の住民が管理している「源流の森」
日本では、多くの場合、川の下流にある都市に「富」が集まっている。それができたのは、突き詰めれば上流にある森林の公益機能が健全だったからだ。「その恩恵をタダで使い続けてきたことが森林の荒廃を引き起こしている」との理解が広まり、近年は、源流(上流)の環境維持に税金を投入する動きが活発化している。同時に、下流の市民が自ら森林管理に手を下す事例も増えてきた(写真提供:グループ水と大地)。
同じ価値を持つ複数の資源がある場合に、森林資源あるいはそれを原料としたものを選択的に使用することも、森林へ資金を投入する一助となる。森林管理に直接参加したり支援したりすることがすべてではない。今では、公共事業でも意識的に森林資源を活用し始めている(写真9)。こうした動きが活発化すれば、資金の乏しい森林の公益機能を高める活動にも資金が投入されるようになる。

写真9 公共事業における地域材の活用
これまで、外材の合板を資材として利用していたのを、地域の余剰間伐材から作った合板に置き換えた。新しい合板は基本的な機能が同じであるばかりか、景観的にも優れている。外材よりも高額ではあるが、価格差に見合う付加価値がある。その利益は、地域の森林の育成費用として還元している(写真提供:岡田産業)。
外材と比較し、国産材は細くて低品質だとの指摘もある。だが、この点は工夫と技術でかなりの部分まで補うことが可能だ。細い丸太を組み合わせることで、美しく強度の高い集成材にすることができる。かつて、巨人軍の王貞治選手のバットに利用されて有名になった圧縮材の技術も有望だ。これらの林産加工技術をうまく利用すれば、今からすぐに、高品質な木材資源として国産材を使用することができる。
消費レベルでは、森林認証された材を優先利用したり、2005年4月からスタートした「バイオマスマーク」(図2)の付いた商品を購入したり、あるいは、コンビニのレジ横にある「緑の募金」に釣り銭を入れるだけでも、公益機能の再生に間接参加したことになる。皆が参加できるチャンスはたくさん用意されているのだ。

図2 バイオマスマーク
バイオマスを原料に使用した商品に「バイオマスマーク」を表示する制度が2005年4月からスタートした。詳しくは、こちらを参照していただきたい。なお、「カーボンニュートラル」とは、焼却しても、最終的に大気中のCO2を増やさないというバイオマスの特徴を表現した言葉。このような「エコ認証」マークは多々あるので、認証された製品を積極的に利用したいものだ。
森林への資金投入は、競争原理を導入することが重要となろう。以前は、戦中の乱伐によって公益機能が大幅に低下してしまった森林を早期に再生するために、「植えたら補助金」という施策を取った。この仕組みでは、公益機能を再生する効果の大小はほとんど問われることがなく、大量の補助金を植樹に対してほぼ一律に投入した。一律であったことが間違いの始まりであったとの批判が小さくない。それから40〜50年が経過し、量を増やすことを目的とした植樹に対する補助金投入は役割を終えたと言えるだろう。
成果の大小に応じて補助金の額に差をつけることなど、競争原理を投入することで、森林管理者の知恵や工夫を引き出すことができる。特に、森林資源が売れた場合にペイバックされるシステムが有効であろう。生産者が販売実績を申請。それに応じて補助金を出す。努力した森林経営者だけに正当な報酬がバックされるシステムだ。
ただ、この補助金を出す根拠を安易に「森林認証」に求めてしまうと、小規模な環境貢献を見捨ててしまうことになるので注意が必要だ。認証制度そのものを成熟させるか、小規模運営体が認証を得られるようにするための社会支援などが求められる。
森林管理のために、より一層の資金とマンパワーが必要となることは違いない。その原資を「もうけ」から得ることが管理運営の持続性を高める。結果的に公益機能も維持される。税金やボランティアは途切れたら終わりだ。競争のまったくない構図が、集団全体の力を弱めることは、各所で指摘されていることだ。過度な競争も、また同じであるが…。
8. 観光で得た資金を充てる
森林に投入する資金の資金源の一つとして「観光(ツーリズム)」に注目したい。近年は、自然志向が高まり、グリーンツーリズムやエコツーリズムへのニーズが高くなっている。「体験」、「癒し」、「民泊」など「スロー」であることが経済価値を生み始めた。自然やスローライフに興味を持つ方の多くは、公益機能の高い自然に対して高い評価を与える。お金も落とす。スピードとお手軽さ(コンビニエンス)を売り物とした、施設で散財する既存タイプの観光とは対極にある価値観だ。
最近、団塊の世代が大量に定年する2007年問題が取り上げられている。団塊の世代は、経済と環境にかかわる様々な経験をされた、おそらく唯一の世代である。豊かな「本物」の自然を幼少期に体験、いっぽうで、その後の公害問題や自然破壊も目の当たりにした。バブル期を経験し、上辺のぜいたくに飽き飽きした世代でもある。これらの体験に基づく経験豊富な目で「本物」の良さと大切さを見抜き、公益機能を観光で評価するという新しい流れをつくり、定着させてくれることだろう。我々、次世代は、それに続けばよい。
そのためにも、観光資源である森林を、公益機能が高い「本物」の状態で維持しておくことが重要となる(写真10)。観光大国であるスイスなどは、このような考え方が浸透していて、商売につなげているからこそ、景観(ランドシャフト)を壊さないよう皆が注意する。すると、同時に他の公益機能も高い状態で維持される。まったく、うまい仕組みである。
いずれにせよ、観光に耐えうる状態で森林あるいは自然を維持、整備することが、公益機能を維持する際の資金を得るチャンスにつながるのである。

写真10 森林が健全であることが観光資源となっている「綾の照葉樹林」
宮崎県の綾町は、照葉樹林を町のシンボルとし、東洋最大級の規模を誇る歩行型のつり橋(右)を観光の「仕掛け」として整備した。
9. 近自然森林管理
筆者の提案する「近自然森林管理」は、バイオマスや観光を利用することで、森林の公益機能を低下させないよう、森林を維持管理することを意味している。もちろん、森林を原生のまま保存する対応も管理の一方法だ。理想の森林像や行動をマニュアル的に一律に決めてしまうことは、地域ごとに異なる生態系の特性を生かせない弱点もあるので、どこででも共通する原則だけを掲げている。
こうした姿勢は「具体的に何をすればよいのか分からない」と批判されがちである。しかし、マニュアル化は「平均値」を高める際には効果的だが、地域や個人の知恵を引き出しにくい。全体主義化、スタンダード化が進行しつつある今日こそ、脱マニュアルも重要な視点ではなかろうか?
最後に、近自然森林管理における共通原則を整理する。
原則1:全員参加
2)このため、すべての人が森林に対して責任と義務を負う。森林とのかかわり方に応じて、個別の役割を果たす。
3)森林に直接関係ない者も、間接的でよいので、森林運営に積極的に参加する(表3)
4)経済重視、生態系保護、レクレーション利用重視など、個別の公益機能を持続させるのに最適な方法論を、考え方の異なる者に押し付けない。皆が納得できる森林運営とする(例:ゾーニングによる利活用の棲み分け、複合化技術の方法論の選択など)
5)世界規模で見た場合、地域間によって都合が異なることを認める。個別の狭い地域だけでなく、広域なエリア、国家、世界にも好都合となる森林運営とする(森林原則声明への理解を深める)
6)そのためには、相互理解のプロセスへを経た社会合意が不可欠(議論の場の創出と、情報開示の重視)
原則2:地域にとって必要な公益機能を提供する森林の面積と生態系の質を確保する
2)バイオマスを持ち出す林分は決めておく
3)森林からの地目変更は原則的に行わない
4)公益機能を維持する土地利用、ミティゲーションの徹底
5)樹種などの「個別資源」は人為的なコントロールが可能だが、地形や地質などを維持する条件の人為的改変は困難または不可能であるという原理を理解して土地を利用する
6)国際的な視野に立ったゾーニングを行なう(国内の森林の生態系を守る裏側で、外国の森林の乱伐に加担しない)
7)以上の視野を総合し、地域の特徴を生かしたゾーニングとする(生態系管理)
8)同一森林内でも同じ発想で詳細にゾーニングしておく(林分管理)
原則3:公益機能を損なわない適切な技術の行使
2)運営は「もうけ」の中で行う。森林の価値を材木だけに閉じこめない(表5)
3)バイオマス利用を行っている森林の公益機能を維持する、下げない、高める利活用、管理・運営を行う(表6)
4)バイオマスの持ち出しは年間の成長量未満に制限する(表7)
以上の原則を、実際の行動にどのように生かすかは、森林にかかわる全員の裁量にかかっている。原則から逸脱しない付き合い方をしている限り、森林は様々な公益機能を恩恵としてもたらしてくれる。我々の社会の豊かさと自然の両方を持続させられる可能性が高くなる。
地球に住む者全員が森林の関係者だ。森林は、我々全員にとって重要な存在であることを再確認し、自然と経済が同時に持続できるように、皆が努力していくことが重要だろう。その第一歩は、森林に目を向けることだ。
「休」という字は、「人」と「木」である。また英語の森「forest」は、「for + rest」つまり「休む」ためのものであるというヨタ話がある。こうしたつながりはあながち間違いではない、と思うのは筆者だけだろうか? とにかく、森に行きましょう。森林を持続させるヒントを、自分の肌で感じることができるでしょう。
近自然森林管理の「原則」をまとめる際、インターネット会議「近自然の広場」の諸氏、ならびに北海道稚内在中の近自然農業の実践家、ファーム&スペース・レラの新田みゆき氏のご協力を受けた。ここに記してお礼を申し上げる。「普通の農家のおばちゃん」を自称する新田氏だが、自然を見守る目は温かく、環境問題への造詣は深い。アイヌ語で風を意味するファーム・レラでの活動は、「地域映像ネットワーク」の「ふぞろいの卵たち〜ファーム・レラの挑戦〜」をご参照下さい。
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コメント一覧
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今私の田舎では屋敷森というか、宅内の樹木がみな伐採され都市と比較して緑の少ない環境になっている。私なども少しの土地に木が伸びているが、伐るようにという声が聞こえてくる状況です。田舎というのは土地が広くあり木を伸ばせる状況にあるが何か考え方が違うものだ。木を植えて大きくすれば喜ばれる社会はいつになったら来るでしょうか。
それから都市の自治体は大きな木を保存樹木として指定しているが、都市を離れるとそんな考えはないようですね。
「バイオマス(生物資源)って何だろう(5)~(9)」を興味深く読ませていただきました。森林に関する広範囲に及ぶ内容をわかり易く説明していただき、とても刺激になりました。
近自然森林管理を考える場合、企業というのは必ずや重要な役割を果たすように思いました。
企業がサポーターとなっている森林に止まらず、企業が所有している土地(社有林や使われてない保養所)には近自然森林管理そのものが当てはまるように考えます。企業は中長期的な利益も考えないといけないはずなので、CSRブームが起こっている現在、森林の公益機能を市場誘導型で広く正しく広める機会なのではないでしょうか?
また、全国に存在する工場緑地を工場森林と位置づけた場合、かなりのムーブメントが起るような気がします。二酸化炭素の吸収源とも位置づけれれるだろうし、将来の鎮守の森的な意味合いも持てるだろうし、ゾーニングとユニット化のキーにもなるだろうしと、いろいろ楽しく想像してしまいます。
どんな形であれ、人間が関係することなので、コミュニティという視点は絶対必要だとは思いますが。
木村 玄 さま
中島@著者です
こんにちは
ご意見ありがとうございます。
私も,木村さんと同様に感じます。やはり,緑が多い環境は,多少の不自由もありますが,それでも気持ちの良いものです。
さて,屋敷林のことですが,昔は,地域地域で役割こそ違うものの,樹木を庭に植えることで,人間も快適性を確保していたようです。防風林もそのひとつでしょうし,果樹を植えることも楽しいものです。そこに,鳥やチョウチョもやって来たりします。最近は,そのこと(生きものの存在,特に不快な生物)が「うっとおしい」や,防除のために農薬を使い,それが健康に良くないなど,「清潔」であることを求めるがゆえだと思うのですが,庭の樹木の役割は,金属のフェンスなどに置き変わってきています。そういう無機的な環境で,ほんとうに私たちは,清潔に健康に生きていけるものでしょうか? 色々な方に伺っても,疑いを持つ人少ないようです。私もその一人です。
さて,都市や住宅における樹木の存在ですが,夏は影を作ってくれますし,冬は風を防いでくれます。もしも,夏だけ影が欲しいのなら,落葉樹にすれば良いですね。冬は葉がなくなりますから,影にはなりません。ただし,落ち葉の掃除は必要になりますが,それで堆肥を作れば,庭の土も肥えて,無農薬の安全な野菜を自家栽培することもできますね。落葉樹は,季節変化も美しいので,無機的になった都市空間に潤いを与えてくれると考えることもできます。
近年は,ヒートアイランドなど,都会における熱の蓄積が問題になっていますね。コンクリートやアスファルトだらけにしてしまったからです。エアコンからの廃熱は拍車をかけます。この対策として,都市の表面の構造を,蓄熱しにくいもので配置すること,蒸発で熱を排出するものを増やすことが提案されています。蓄熱しにくいものには,保水性を高めることが良いということで,土を露出させることが良いと言われます。水辺を増やすことも良いそうです。そこに植物があると,蒸散してくれますから,蓄積された熱を放出してくれます。屋上緑化が注目される理由も,このようなことにあります。
また,樹木の「影」は,地面と樹冠(梢)の間に空気の層をつくってくれますので,熱の伝導が小さくなって蓄熱しにくくなります。さらに,梢自体は,熱を反射し,蓄熱した熱を排出してくれますから,さらに冷える分けです。このような緑陰の効果は,ヒートアイランドの解消に大いに関係します。また,日陰でのんびり休むことができることも,気持ちの良いものです。しかも,樹木があると,騒音も防いでくれることもあり,さらに快適性は増すわけです。
それだけではありません。樹木が幹や葉に保水してくれていると,火災の際に火が広がることを防ぐ効果もあります。この効果は常緑樹の方が大きいのですが。
樹木には樹種ごとに,様々な機能があります。それは,近代的な生活では石油や原子力で得ているものを安く補える機能です。しかも,心にも気持ち良いものです。やはり「街に緑を」と言うのは,私は大賛成です。
一方,保存樹の件ですが,確かに田舎の方が意識しない傾向はあるようですね。同じ,長い時間をかけて育ったものなのに,その「時間」の価値が軽くみられているのでしょうか? 私も注意して,価値の高いものであることを主張していきたいと思います。
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greentiger さま
中島@著者です
こんにちは
ご意見ありがとうございます。
私も,greentigerと同様に感じます。企業の役割は欠かせないと思います。最近は,「企業の森」というものが出てきていますね。都会の企業が山林を借りたり買ったりして,そこに社員の手で植樹する。地元の方と共同で管理する。その保養機能を会社全体で楽しんだり,山菜やキノコ,材木の収穫を地域の人たちと共に楽しむなどの活動も活発になりつつあります。面白かったのは,某スポーツ用品のメーカーが,野球少年たちと「バットの森」というのを植樹していました。バット材となるアオダモが減ってきたこともあるのですが,それを野球少年たちと育てるということには,アイデアの面白さに感心しました。私の友人には,新聞社が主体となって森林再生している場所で森林運営している若者がいます。新聞は紙を使いますので,それを少しでも補うって発想らしく,これも,面白いアイデアだと思いました。
もちろん,企業が営利のために排出した環境負荷や,使用した資源の再生を植樹だけで補えるとは思えません。中には「アリバイづくりだ」と批判する声も聞きます。私は,少しでも返していこうとする姿勢には共感しています。あとは,返し方を,より,近自然森林管理に近づける方法の選択と,可能な限り多く返してもらえれば,良いのではないかと思います。小さくとも,ゼロよりははるかに大きいですから。
一方,greentigerさんのご指摘を言い換えると,工場の敷地など,企業の所有地の樹林化ですが,法律で一定面積割合以上の植樹が義務化されています。ここは,基本的には,資源獲得よりも,他の公益機能の再生を目指した場所ですので,近自然森林管理が適用しやすい場所です。しかも,面積が確保されますので,効果も期待できます。ウマクやれば,大都会でも相当な素晴らしい森ができます。東京の明治神宮などは,人間が植樹した森で,粗放をベースに管理した結果,あのような立派な森になったわけですから。こう考えると,遊休地も同様に扱ってもらいたいものですね。そういう企業の製品を優先的に購入する消費者も増えるでしょうね。某大手コーヒーメーカーが,フェアトレードで購入した原料を使ってますが,アリバイづくりだと批判する人もいますが,評価する人もいます。是非は分かりませんが,環境貢献がPRネタになって,消費につながることも最近の傾向だと思います。そして,その批判をなくすためにも,森林の公益機能を市場誘導型で広く正しく広める機会だとしたgreentigerさんのアイデアは,とても的を得ているものだと思います。
鎮守の森については,某自動車メーカーや,某複写機メーカや,某大手量販店などが,ダイレクトに「故郷の森の再生」というテーマの緑化を行っていますね。コンセプトは,まさしく,鎮守の森です。ここでも,方法論などに批判はありますが,ゾーニングとユニット化のキーにもなるだろうしとされたgreentigerさんのご指摘は,とても的を得ているものだと思います。ウマク公益機能の誘導に活用すれば,批判されることよりも,社会に歓迎されることの方が増えるでしょうね。
そういうことでは,近自然森林管理は,都市の樹林再生には持って来いの対応でもあり,企業さんにとってはビジネスチャンスでもあると言えそうですね。
最後になりますが,コミュニティが大切だということでは,わが意を得たりという思いです。ありがとうございます。今回は,まだまだ未熟な論でしたが,今後も,ますます育てていくつもりです。
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山の持ち主には結構個人が多いのではなかろうか。個人所有の森林はほとんど手入れがなされていない。しかし、所有者以外の人はタッチできない。
ここに山の荒れ果てた状態が起きる。森林は少なくとも日本では人類生命の血脈だと思う。森林は個人所有から公的管理の下に移すべきではないか。
かって国機関の営林所の効率の低さで役をなさなくなったが、日本のもてる科学と技術とで効率を改善し、森を護る人々のの生活もある程度保障できる制度の構築で森林を再活性出来ると信じるし、また再活性させなければならないと思う。
岡崎 昭 さま
中島@著者です
こんばんは
ご意見ありがとうございます。
厳しいご指摘ですが,問題提議されたこと,まったく日本の実情を示しています。ご指摘のように,日本バイオマス利用を行っている森林には民有林が多いです。しかも,小規模な経営者も多いときています。このため,なかなか,皆さんの方法が定まらないという批判も少なくありません。
では,まとめれば良いか?ということですが,専門家の間では,良い場合とそうでもない場合があると考えられています。日本の森林は,かつては,個別の所有者や管理者が,ばらばらな行為をしたために,小規模な範囲で形が異なっていました。このような小規模な形の違った森(林分)が入り混じった「モザイク林」は,環境条件や生態系が複雑となり,結果的に公益機能を林分間で補いあうことで,全体としての公益機能が高いとされています。これらをまとめてしまうと,モザイクを維持するような工夫をしない限り,条件が均質化されてしまいます。このため,狭い林分ごとで管理方法を変えていく「林分施業法」も開発されていますが,作業が煩雑で,コストが高くなってしまい,国際競争力の面で問題も引き起こすこともあります。ただし,モザイク林が良いのは,ちゃんと管理した場合の話です。小規模であるが故に管理費がなくって放置したら,せっかくのモザイクも台なしです。この「管理を行う」資金やマンパワーに欠けている実情を考えると,公用林化への期待も大きくなります。つまり,ご指摘の通りです。これは,管理を継続する上で,効果が期待できます。
公用林にしろ,民有林にしろ,まとめることのメリットもあります。機械などは少なくてすみますし,林道も,切り出しも計画的に実行できます。となると,小規模な林家が共同体制をとっても,良いというコトになります。そして,それぞれの林分で林家独自の管理を行えば,モザイクも維持されます。あくまで管理した場合のお話ですが。
いずれにせよ,どうやったら管理を継続でできるか? バイオマス利用を行っている森林での大きな課題です。民有林のままであろうが,公用林に転換しようが,ご指摘のように,「森を護る人々の生活もある程度保障できる制度の構築」が重要だと,私も考えます。それを,税金で賄うか,森林資源の積極的な活用で森林経済を活性化させるか,答えはなかなか出せないようです。どちらでもいいから適切な管理運営をしない限り,森林が国土の血脈だというご指摘への対応は実現できないことになります。おそらく,消費と税金の両建ての対応が,当面の対応になると考えられます。全員参加で対応したいものです。全員が公益機能の恩恵を受けているわけですから。
岡崎さんのご指摘,明快で気持ち良かったです。
近自然森林管理を読ませていただき、大変勉強になりました。
今回、評価と全員参加ということについてコメントさせていただきます。
まず、脱マニュアルによる管理法と公益機能の向上の大小に応じた補助金の在り方を説明されていますが、この場合、評価はどのように考えたらよいのでしょうか?
管理不十分な人工林を植生誘導によって、防災機能や生態系保全機能の向上を目指した場合、その効果が現れるには時間がかかると思います。ある程度、基準を設けないと現時点での評価が難しいのではないでしょうか。また、その評価が適切でないと競争原理も働かないような気がします。
最近では、山歩きや山菜採りが盛んで多くの人が山に来るようになりました。ただ、マナーの悪さが目に余ります。全員参加とは森林は社会の共有財産であるという意識だと思います。一方で多くの森林公園的な公共施設では、山菜や野草の採取が禁止されています。ゾーニングとバイオマス利用制限がきちっとされた採取自由の空間があっても良いような気がします。ちょうど鮎釣りのようなシステムでもあった方がルールが明確になってマナーも良くなるのではないでしょうか。もっとも釣り人のマナーも問題になっていますけど。
chitomi さま
中島@著者です
こんにちは
今回も,とっても鋭いご指摘,感謝します。
正直,痛いところをつかれたな・・という思いです。前回に引き続きです。
まず,「評価」のことにつきまして,私の「今のところの」考えを示しておきます。
何かの効果を評価する際には,大きくは二つの方法論があると思います。一つ目が行為を行う前と後で比較する方法。二つ目は一定の基準を設け,それを達成できているかどうかを調べる方法です。双方とも,長所と短所があって,前者の短所は,何らかのことで前あるいは望んだ方向に進んでいることだけは分かるものの,どこまで進んでいるのかの位置がわからないことです。つまり,定量的に見える,この方法は,実際には定性的な評価にとどまってしまう恐れがあります。これに対し,後者の短所は,基準そのものが望んだレベルにほんとうに置かれているのかが分からないことです。これを分かるためには事象のメカニズムが「ある程度」は分かっていないといけいし,そのことに対する合意がないと,評価結果を無視されてしまう恐れがあることです。
つまり,基準は,効果のあったこと,確保されていること,安全であることなどを確認する「安心」のプロセスには不可欠ですが,ほんとうに効果を指標しているのかを知ることが困難だったりします。となると,いつまでも分からないことになるというジレンマにもつながります。
そこで考えているのが,評価者が「納得」できるレベルを設定するというのはどうかな?と,考えています。科学者なら最先端のサイエンスで分かっていることを駆使した基準を,新たな知見が得られたなら,それに合わせて評価法も修正する。科学のことは理解できない人には,それこそ「直感」で,良い悪い,あるいは好き嫌い・・そういうことを評価する。さらには,科学の細分化された分野別で評価しておく・・当然のごとく,経済評価なども含め,事象間のトレードオフ関係が明確になる指標を可能な限り多く得ておく・・
それらのことを元に,皆が納得できるレベルを模索するというものです。総合的な評価と言ったら良いのかも知れませんが,総合的であるということは,判定基準があいまいな判断方法でもあるので,本来は避けたい方法です。しかし,立場も考えも着目点も違うことを同時に判断するためには,それしか無いのかも知れませんね。
ただ言えることは,定量評価の場合には,基準が明確にできるものはそれを使う。基準が変わったなら修正する。基準が分からないものには無理に基準を設けない・・それでも設けたい時には,条件や視点を明確にしておく。ということが不可欠だろうと考えます。なお,生態系の評価では,比較が良いのか,基準が良いのか,それを指標するのは,量か質か,あるいは指標する事象の確認なのか,生物種なのか・・まだまだ,よく分からないというのが実情で,各所で懸命の研究が進んでいます。しかし,市民に対して出てくる時には,権威だったりするので注意が必要です。判断基準は,さらにあいまいだったりするのですね。細かい効果だけなら基準を論理的に置けることは少なくないですが,それを納得のプロセスに高めることには,なかなか成功できていないようです。
続きまして「共有財産」の考え方についてです。お叱りを覚悟で書きますが,多くの河川におけるアユ釣りは欠陥を含んだシステムだと考えます。確かに,放流したアユを釣り人が釣ることに関し,放流者と釣り人だけの関係で完結するように思えるかも知れません。しかし,アユを育てたのは,他でもない自然の力であって,これを放流者と釣り人だけで占領することは適切ではないでしょう。このことがあるので,双方とも,アユ釣りに関係のない方に対しても,何らかの貢献をしようとします。河川環境の維持に対して,資金やマンパワーをアユ釣りの関係者が出しているという事例を耳にすると,ほっとします。ゴミ広いなどは分かりやすい例だと思います。まあ,自分や仲間が放置したゴミを集団責任で片づけているだけだという批判もありますが・・
また,全員参加であるならば,その恩恵も参加の応分に合わせて配分されることが望ましいですね。chitomiさんのおっしゃられる通りだと思います。義務だけでは息が詰まりますものね。自分の貢献?が分かるバックは欲しいものですよね。そのひとつが,活動の自由にあると思います。恩恵の一部を管理者や土地の所有者が独り占めするのは,共有財産の私物化だと思います。ただ,維持管理のためや,資源量を減らさないためには,制限は必要でしょうね。その評価も,また難しくてこまります。
長くなって申し訳ありませんでしたが,バイオマスは,全体を通じて,その命のスタートに人間が関与したにせよ,その育成には共有財産である太陽が大きく関与しているということです。そこまで含めての独り占めは,やはりやり過ぎだと思うのです。公益機能を下げない,管理費が赤字にならない範囲では,公共に還元しても良い部分はあると感じます。スイスなどでは,バイオマスの収穫については制限や決まりがありますが,活動については私有地でも自由な場所があります。それは,住民の権利だそうです。特に,ランドシャフト(景観)を楽しむ権利は,全員にあるそうです。ただし,自然を壊さないことが保証できる内容と,場所に限定されますけど。
それにしても,chitomiさんのご指摘には,いつも考えさせられます。適切に答えられないため,長文になってしまいます。文字でのやり取りがもどかしく感じられます。可能なら,もっと深く意見を交わせたらと・・何度思ったことか知れません。私は,この先も,深く深く。広く広く考えていこうと思っておりますので,今後ともご指摘,お願いいたします。なお,近自然の議論を深めたいとのご希望がありましたら,
http://groups.yahoo.co.jp/group/yamawaki_fun/
を,おたずね下さい。失礼します。
chitomi さま
読者の皆さま
中島@著者です
お願いがあります。
ただいま,本コラムの著者4名で,「評価」に関し,近自然学の立場ではどうなるか?について,原則論を整理しようとの議論を始めました。もちろん,対象となる分野は多岐・多様ですので,ひとことで整理できるものでないことは分かっていますし,整理しきれないかも知れません。しかし,著者それぞれで専門分野がありますから,それらの経験を活かした整理を行なおうということです。
もしも満足できるものになったら本コラムにも紹介したい思っているのですが,何か「これだけは大切だ!」あるいは「こういう評価法に期待している」といようなアイデアはございますでしょうか? 著者が読者にこのようなことを質問するのはルール違反かも知れませんが,近自然学が「まだ」途上にあることをおくみ取りくださり,ご意見をお寄せくださると幸いです。
もちろん,他の読者の皆さんも,評価に関するご意見を,おおいにお寄せください。
中島さま
私の愚問に対して、丁寧な回答ありがとうございました。
評価に関する私の意見ということですが、正直なところこれという考えがあるわけではございません。
ある事象(この場合は森林管理)を評価する場合、事前事後の比較にしろ基準の設定にしろ、森林自体の評価をどうするかということにつながる気がします。いわゆる自然環境の評価です。
研究者の方々そのために、基礎データの整備やメカニズムの解明に御尽力なされていることは良く存じております。
本日、ー河川環境目標への科学的アプローチは可能かーというワークショップに参加してきました。その中で治水目標のように環境目標を制定できないかという議論がありました。また、環境目標は価値かんであるとも言ってました。いずれも合意形成が大切であるとの事です。
税金を使うのであれば、納税者の合意形成は必要不可欠であるし、価値観が多様化している現在に普遍的な目標(評価基準でもよい)を制定するのは不可能なのかも知れません。
また、河川について言えば治水は人々の生活の中から発生した事業であるし、合意もなにもありません。そういったものと環境目標を同列にするのは難しいのではないでしょうか。
中島さまが言われるように、経済原理に乗せることが出来れば、例えば観光客(市場)がその評価をしてくれるでしょう。あまり経済的になっても、人の価値観は移りゆくものですし不正を招くことにもなりかねません。
結局、個々の事象に応じた共通の価値観を求めていくしかないのでしょうか。
文章が長いわりに考えがまとまっていません。すみませんでした。
Chitomiさま
中島@著者です
こんにちは
すっかり,レスが遅くなってしまいまして,申し訳ありませんでした。「評価」については,正直おてあげな部分があります。と,申しますのは,何を評価することが何にとって必要なのか,明確にならないからです。もちろん,事業評価などでは,ある程度は想定できるでしょう。
以前「自然再生における趣味と悪趣味」という講演を行なった時に提案したのは,
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その場(に対する効果)がどうであるか?といった「自立性」と,他所に対してどうか?という「調和性」の両面から評価されることが,より重要となる。なお,自立性評価は,工事の投入効果の評価にも使えるから,費用対効果を知りたい事業者や工法を売り込みたい企業には重要だが,周辺住民にとっては,むしろ調和性評価の方が気になったりするものだ。
http://www.wakayama-u.ac.jp/~nakat/PDF/midorinorinri.pdf
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というのを提案しています。調和性評価の場合,外への影響,ここでの場合は,とある森林そのものがあることで,周辺がどのような好影響を受けるか?,悪影響を受けるか?,などを,公益機能のそれぞれで判定してみる。さらに,周辺の影響をどのように受けるのかも同時に判定してみる。これに,その森林「そのもの」がどれだけの環境容量を持っているのか,つまり「自立性」評価を行なう。これらの中から,その森林の取り扱いについて決めていくというのが,経済にも環境にも不公平にならないと考えています。
まだまだ考えている途中のことでレスするしかないのですが,第一段ということで,お許し下さい。
5/31の回答に、「的を得ている」という表現が2ヶ所ありますが、「的を射る」の誤用ですね。それではまた。
ランナーKTさん
著者の中島です
はい,おっしゃるとおりでした。ワープロのせいにしちゃ,いけませんね。以後,気をつけます。